うえじゅん!

私、うえじゅんが15歳のときからの恩人が急逝。

2015年5月23日

私、うえじゅんが15歳のときからの恩人が急逝。
その恩人とは出版社「ほんの木」創業者で代表取締役の柴田敬三さん。
5月のお誕生日で70歳をお迎えになる直前のことだった。

重度の糖尿病から、心筋梗塞を患い昨年の夏に手術。
その半年後、前立腺癌が見つかり、お仕事をしながら通院治療中だった。

急逝前夜、ご家族と夕食をとり、おやすみになった翌朝、呼吸が止まっていたのだとうかがった。

全国どころか、海外からもかけつけた、環境問題の、NGOの、教育の、市民運動の第一人者の方たちが「メンターを失った」と、お別れの会で涙を流していた。

私、うえじゅんと柴田敬三さんのお出会いは39年前に遡る。
当時、31歳だった柴田さんは、小学館のティーンズ誌の敏腕編集者。
15歳だった私、うえじゅんは、滋賀県彦根市という田舎の街の中学生。

柴田さんがご担当の人気連載、読者とのオフ会が、彦根で行われたときに応募。
参加させていただいたのが初めての出会いだ。

柴田さんは私が初めて会った東京の人だった。
めちゃめちゃ頭がよくて、お話がおもしろい。
なにより、お仕事がめちゃめちゃ楽しそうだった。
「東京にはこんなすごい人たちがたくさんいるんだ。私も東京で働きたい」。

小学生のときに集英社の『ノンノ』を作るおねえさんになりたいと思っていた私。
けれども、うちは、中学でさえも辞めて働きたいと思っていたほど、極貧の母子家庭。

編集者の方の卒業大学の学費を調べると、大学進学は断念せざるをえなかった。
でも、もうひとつの夢、アパレルのデザイナーなら、少しだけ可能性があった。
著名なデザイナーを輩出している文化服装学院の学費なら、高校3年間アルバイトで貯金すれば、入学金はなんとかなるかもしれないと思った。

仕送りは望めない。
けれど、時給の高い東京ならば、アルバイトを掛け持ちすればやっていけるかもしれない。

高校一年生の夏休みに上京し、柴田さんを訪ねた。
神保町の小学館の地下の喫茶店で、「アルバイトを掛け持ちして文化服装学院に通おうと思っている。そのために貯金をしていること」を告げた。

すると、柴田さんは「アルバイト、うちでやりなよ」即決してくださった。
仕事は朝6時から登校前に柴田さんのおかあさまが経営していた竹橋のキオスクくらいの小さなコンビニの開店準備。
放課後は、お義兄様ご夫妻が運営していた竹橋の雀荘で。

上京してからは、柴田さんご夫妻どころか、ご両親、ご兄弟にまで、まるで家族の一員のように接してくださった。

お正月にはご自宅に招いてくださって、奥様お手製のおぜんざいをいただいた。

奥様は「おとうさん、本当に仕事のこと、人のことばっかりで、家の門、ずっと壊れたままで閉じないのよ〜。それじゃ門じゃないわよね〜」。みんなで笑った。

そのとおりで、柴田さんは、いつも自分のことよりも、人のことを優先なさる。
だから、ずーっと、ずーっと、ずーっと前歯が抜けたままだった。

「あの生活ができたんだから、上田は絶対大丈夫だよ」

文化服装学院に通っていた10代の頃から、柴田さんが私にずっといい続けてくださった言葉だ。

柴田さんのおかげで、私は文化服装学院を卒業し、念願のアパレルデザイナーになることができた。

柴田さんとお目にかかっていなければ、私は田舎でずっと諦めた人生を送っていた。

柴田さんとのツーショットの写真をと思ったが、ない。
家族が何か特別なことでもないとわざわざ写真を撮らないように、手元に一枚の写真もないのだ。

それで、お別れの会の会場で柴田さんのお写真とセルフィー。
土日もなく、ずーっとずーっと世のため、人のためを思ってお仕事をしていらした柴田さん。
どうか、安らかにおやすみください。

本当に本当にありがとうございました。

柴田敬三さん、70歳のお誕生日に行われたお別れの会で。 
場所: 如水会館

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